死生観の変化
この世に生をうけ、やがて朽ち生涯を終える。
これだけは平等に与えられた自然の摂理の中で生きてることを強く感じる瞬間かもしれません。
人が生まれるとはものすごーいエネルギーの動きがあってさまざまな状況でさまざまな人に大きな影響を与えてるんです、気づかないうちに。まるで雷が落ちたようにその瞬間自然の力にただただ圧倒されるような感覚。
その逆も然り、無力な感覚までも。
生を考えた時、死もセット。
誰しも想像はしたことあるかもしれない。どんな死に方をするのか、それは病気なのか交通事故、殺される、もしくは自らの手で、、と考えるだけで気持ちのいいものではないなと今一瞬苛まれた。
世界の歴史には不老不死の薬の研究、賢者の石なんて言葉もあるくらい生に執着するのも人間なのかな。
昔みた古いアニメで不老不死の薬を飲んだ女なの人が歳をとらずその後も生活し普通に結婚して子供を持ち夫も子どもも友達も歳をとる中で自分だけが変わらず若いままで居続け大切な人たちを見送る。その人は死にたいんだ、それが願い、歳をとって愛する人たちと共に死んでいくことがどれだけ幸せなのか、と言う言葉を言ってた。
自分だけがずーっとこの世に残る、考えただけであたしは不老不死なんてごめんだな。
ネットでこんなに世の中が繋がっていなかった時代、死は聖なるかつ当たり前に人々が関わってきたものだったように思う。それはあたしの感じる感覚であって事実ではないかもしれない。
あたしの母の祖母は亡くなる数日前からご飯を食べなくなりその後に亡くなった。
昔は子、孫とみんな一緒に住んでたからみんなで関わり助けあい「その日」をなんとなく意識しなんとなく覚悟し受け入れながらその日を静かに家で迎えてたのではないか。
人間寿命つき死ぬ時は食べれなくなり脳からたくさんのあるホルモンを分泌しはじめる。
それがなんだか気持ちいいらしい。苦しいというよりはそのまま眠るようにこの世にさよならができたのが本来の"死に方"だった。
今は「医療が発達」し寿命も延びた。
寿命が延びたと思うのは昔の人たちの丈夫な身体だからなのかもしれないが、「医療が発達」したおかげで苦しんで(苦しんでるように見える、というのが正しいのか)死ぬことも増えた。
延命治療は確かにあたしや家族にとって感謝しなくてはならないものだった思う。それはあたしの祖母が癌で闘いその年月を過ごせたのはそのおかげでもあるから。
生き延びる「かもしれない」選択肢、これらの変化がひとりひとりの心の中にある「死生観」を変えていったひとつの変化だと思う。
その死生観の変化は今回のコロ劇場にも大きく反映してるようにみえる。
それはまた次回に👋